Saint Seiya  > 猫と獅子と絶対零度−家族が増えました−

4. アイオリアの憂鬱
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 早朝のジョギングはアイオリアの日課である。雨の日は仕方ないが、太陽が昇りきる前の涼しい時間帯は人も少なく、何より空気が澄んでいる。一日の始まりには最適だ。
「おはよう、アイオリア」
「あっ、おはようございます、兄さん」
 教皇として多忙を極めるアイオロスも、元より身体を動かすことが好きな性分だ。前日の執務がよほど長引かない限りは、ほぼ毎朝、弟と仲良く走っている。一汗流した後のシャワーは格別で、その後の執務もより捗るというのが彼の持論である。
 この日も小一時間ほど走り込んで戻った二人は、獅子宮の前で別れた。今日も一日頑張るか、とアイオロスが軽くのびをしながら残りの階段を上っていると、ビュン! と物凄い勢いで何かが通り過ぎた。
「…うん? 今の小宇宙は…カミュ、か?」
 こんな朝早くに、小宇宙を燃やすほど慌ててどこへ行くのだろう。少々気になり立ち止まったが、カミュとて立派な大人だ。わざわざ干渉するのもおかしな話だと思い直したアイオロスは、それ以上気にすることもなく再び帰路についた。

***

「いきなり何をする!?」
「貴様…。この期に及んで白を切ると言うのか!?」
 朝食の前に汗を流そうと浴室へ向かうアイオリアの背後で、バン! と乱暴に玄関を開ける音がした。何事かと思い振り返るや否や、ガッと胸ぐらを掴まれたのだ。
 引き寄せた勢いでふぁさ、と長い髪が揺れる。まっすぐに伸びた、艶のある赤い髪だ。
「何の話だ!?」
 そもそも、アイオリアはカミュとそれほど親しくはない。仲が悪い、或いは嫌いというわけではないが、接点がない。相方と言えるミロとは昔から仲が良いけれども、どういうわけか、カミュ本人と話す機会はそうなかった。あったとしても、せいぜい挨拶や軽い世間話程度だ。ゆえに、激昂する理由がまったく見当たらなかった。
「何の話、だと…? 自分の胸に聞いてみろ」
 益々もってわからない。ここ最近の行動と言えば当番制の執務に赴くか、休日ならば身体を鍛えるかのどちらかだ。これと言って変わったことはしていない。
 とりあえず、胸ぐらを掴まれたままでは苦しい。カミュの腕を強引に振り払って距離を取る。
「一体、オレがお前に何をしたと言うのだ?」
 理由だけは一応聞く。あの冷静なカミュがここまでいきり立つには、何かしら原因があるはずだ。
「私ではない! サガに…私のサガに、あんな、ことを…っ!!」
「はあっ!?」
 どこから突っ込むべきか、驚いた点が複数ある。まず、どうしてサガの名前が出てくるのか。そして、彼はいつからカミュのものになったのか。勢い余っての出まかせだとは思うが、「サガは私のものだ」と宣言する兄を今まで何度も見ている。
「とぼけても無駄だぞ。はっきりと聞いたのだからな!」
「だから、何を訳のわからないことばかり言っているんだ! サガになんかずっと会ってないし、お前だって知ってるだろう!? サガに何かしたら兄さんに殺されるだろうが!!」
 子どもの頃、長きにわたる逆境に耐え抜いたアイオリアは辛抱強く、性根が優しい。悪事に対する容赦はないが、その部分を差し引いても温厚なタイプに分類されるだろう。だからといって一方的に、且つ身に覚えのない言動で責め立てられては流石に腹が立つ。次第に荒くなる口調で、彼は正論をぶつけた。
「そうか。いや、もはや何も言うまい…」
 何が「そうか」だ。勝手に自己完結したカミュを問い詰めたいのは山々だが、悠長なことを言ってもいられない。彼が纏う黄金の小宇宙が、目に見えて高まりつつある。こちらを見据える瞳は、本気そのもの。
 聖闘士の私闘は、掟により固く禁じられている。しかしながら、今は受けて立つしか選択肢がないようだ。そうでもしなければ、自分の生命が危ない。願わくば外に出たかったが、そんな余裕がある位なら初めから何も起こっていないだろう。
「よくわからんが…お前には負けん!」
「問答無用! せめての情けだ、形だけは留めてやろう」
 技を放ちこそしないが、存分に高められた小宇宙がぶつかり合う。広いリビングが、眩いばかりの光に包まれた。そして…。

 ―――――ドンッ!!

「うわああああ―――――!!」
「ぐわっ!!」
 次の瞬間、二人はそれぞれ真逆の方向に吹き飛んだ。宮の崩壊は免れたものの、大きく破損した壁からはパラパラと破片がこぼれ落ちている。しかし、どちらも極限まで鍛え抜かれた黄金聖闘士。目立つ外傷はなく、打ち付けた箇所を擦りながらむくりと起き上がる。
「小宇宙の高まりを感じて引き返してみれば…。まったく、二人とも何をしているのだ。私闘は禁止のはずだが?」
 間に割って入った人物は、アイオロスだった。片腕でカミュの、もう片方の腕でアイオリアの小宇宙を受け止めている。しゅう、と静かに相殺される様子が、彼らに改めて教皇たる者の実力を知らしめる。
「大体にして、カミュ。君がここに来るなんて珍しいじゃないか。何があったんだ?」
「そっ、それを…私の口から…言わせるの、か…!?」
「当たり前だ。理由がわからなければ解決できないだろう」
 アイオリアに抱かれて乱れる、妖艶なサガの姿。あれを一体、どう説明しろというのだろうか。だが、言わねばならぬ。そう、アイオリアが―――。
「だから…その…サ、サガ、を、◎△$♪×¥●&%#?!」
「…カミュ、少し落ち着きなさい。いつも自分でクールだと言ってるじゃないか。で、サガが何だって?」
 兄の隣で、アイオリアも黙ってカミュの言葉を待っている。一体、自分がサガに何をしたというのか。いい加減にしてくれ、と言いたい。むしろ、怒る権利があるのはこちらの方だ。
 アイオロスに諭されたカミュが、覚悟を決めたようにすう、と大きく息を吸い込んだ。ぎゅっと両目を固く瞑り、頬を紅潮させて一気にまくし立てる。
「アイオリアが…サガに…。サガに、あんなことやこんなことをしていたのだっ!!」
「オレはノンケだ!!」
 “あんなこと”とは言うまでもなく“淫らなこと”だ。当然ながら、アイオリアは即座に否定する。第一、男色を好むと思われた時点で頭にくる。たとえそれが聖域で日常茶飯事であっても、たとえサガが女性を凌ぐ美人だとしても、同性に欲情する趣味はない。
 密かな想いを寄せる女性は、ただひとりだ。やっとの思いで挨拶以上の会話を交わせるようになった星矢の師匠、その人だ。カミュが何をどうはき違えたのかは知らないが、勘違いも甚だしい。
「兄さ…」
「本当か? アイオリア」
「そんなわけないでしょう!!」
 口調は普段と変わらず穏やかだが、兄の眼光は鋭い。まさか、信じたとでも言うのだろうか。だとすれば、とんだ濡れ衣だ。これ以上の面倒は勘弁して欲しい。ああ、もう嫌だ―――!

「…ぷっ、くくく…っ」
 カミュの話をよくよく聞けば、決して濡れ場を目撃したわけではなかった。あくまで扉越しに「サガのあえぎ声を聞いた」と言うのである。そこまでわかると、アイオロスが堪えるように笑い出したのだ。
「!? 笑い事…では…っ」
「ああ、すまん。それよりカミュ、実際に見た方が君もわかるだろう」
 うん、うん、とにこやかに頷くアイオロスの真意が、カミュには理解できなかった。いくら彼の器が大きいからといって、実弟の横恋慕をそう易々と赦せるものなのだろうか。サガのことを、あんなに大切にしている人が。膨らむ疑惑に、表情が再び険しくなる。
「ほら、そんな顔したらせっかくの美形が台無しだ。ミロが泣くぞ?」
「…なっ、貴方まで、そんな…!?」
 相方の勘違いが引き起こした修羅場などつゆ知らず、ミロは二度寝の真っ最中だ。もしも本人がこの場にいたならば、きっと満面の笑みで「怒ったカミュも可愛いぜ!」などと惚気るに違いない。彼の名を出されても否定できないのは、それが嫌ではないからだ。
「今さら何を照れる必要があるんだ。さあ、行こうか」
「あ、ちょ、ちょっと…」
 向かう先は双児宮。躊躇するカミュの腕を掴み、アイオロスが強引に連れ出そうとする。善は急げだ。
「リア、お前もおいで」
「何で!? オレは関係ないじゃないか!」
「つべこべ言わずに来なさい」
「……はい…」
 兄の命令に逆らう余地は、残されていなかった。従うより他になく、アイオリアは渋々首を縦に振る。自分は何か悪いことでもしたのだろうか、これが厄日というものだろうか。そんな自問を繰り返しながら、彼は先を急ぐ二人の後を追った。

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