Saint Seiya  > 猫と獅子と絶対零度−家族が増えました−

1. こんにちは、はじめまして
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 初夏の陽気は、抗えぬ眠気を誘う。
 長めのシエスタを終えた後でも、眠いものは眠い。こくり、こくり、と船を漕ぎ始めるミロの頬を、隣に座るカミュが思い切りつねった。
「痛っ!!」
「ばか者、書類を読みながら寝るんじゃない。また居残りになっても私は手伝わんぞ?」
 うう、と軽く呻きながらミロは赤くなった頬をさする。定時で帰れるようにと、少々手荒いがカミュなりの気遣いだ。そんな彼らのやり取りも、今や皆にとって当たり前の光景だ。ミロを襲った睡魔がすっかり影を潜めた頃、執務室にいつもの静寂が戻る。
 ―――がたっ。
 その時、不意に硬質な音が鳴り響いた。アイオロスが勢い良く立ち上がったのである。
「サガ」
「…え!?」
 真向かいに座るサガが、はっと驚いて顔を上げる。両目をぱちくりさせながら「わたしが何かしたのか?」と、呼ばれた理由を目線で尋ねている。
「君はもう上がって休むんだ。まったく、酷い顔をしている…」
「何を言っているんだ? アイオロス」
「…サガ。君の不調に私が気付かないとでも思ったかい?」
「そんなことはない…あ、」
 すっと隣に立ったアイオロスが、ペンを握るサガの手を優しく制する。物言いこそ柔らかいが、一連の言動からは有無を言わせぬ強制が滲む。もっとも、ため息混じりに眉尻を下げ、心配でたまらないと言わんばかりの表情で見つめられては、流石のサガも首を縦に振るしかないのだが。
「今すぐ君を双児宮まで送り届けたいけど、生憎私も忙しくてね。誰かに…」
「なら俺が送って行ってやるよ」
「ああ。頼むぞデスマスク」
「…そういうわけだ、サガ。帰っぞ」
 当の本人が口を挟む間もないまま、デスマスクはサガに片手を差し出した。きゅっと掴んだ白く細長い手は、じっとりと汗ばんでいて熱い。申し訳なさそうに俯くサガの手を引いたデスマスクは、早々に執務室から立ち去ろうとする。
「言っておくが“君は”戻って来るんだぞ?」
「へいへい」
 サガには悪いけれど、さぼるには調度良い口実ができた―――はずだったが、そのような愚策に気付かぬアイロオスではない。やっぱりな、と思う反面少し残念だ。何ともやる気のない返事をしたデスマスクは、チッと短く舌打ちをする。
 背後に感じる刺すような視線は、おそらくアフロディーテだろう。見なくてもわかる。懐に忍ばせた白薔薇をちらつかせて、そのまま帰らぬようにとけん制しているに違いない。はあ、と諦めのため息をつきながら、彼は執務室の扉を閉めた。

***

「あ…っ」
 獅子宮の前を通り過ぎようとしたその時、小さな茶色の物体がサガの目にとまる。掴んでいたデスマスクの手を離し、足音を立てないようにそっと近づいて屈み込む。
「…おいで」
 サガの気を引いたものは、一匹の猫だった。薄茶色の毛に縞模様が特徴的な、いわゆる茶トラ猫だ。ぽかぽかと暖かな陽光を浴びて、気持ち良さそうに宮の入り口で寝そべっている。気配に気付いたのか、ぴくっと耳が動く。しかしサガに興味を示す様子はなく、大きなあくびを一つしてくるりと丸くなる。
 コミュニケーションは取れなかったが、まるで絵に描いたような球状の塊が愛らしい。じいっと夢中で眺めるサガの肩を、デスマスクがとんとん、と軽く叩いた。
「あんまり道草食ってるとアイオロスに怒られるぞ」
「え、あ、ああ…」
 確かに、彼の言うとおりだ。帰宅を促がされたサガは、何度も何度も名残惜しげに振り返りながらその場を後にした。

「しかし十二宮に猫とは珍しいな」
「そうか? 別に監獄じゃあるまいし、野良猫の一匹や二匹いてもおかしくはあるまい?」
「まあな。うん、どうした?」
「…あ、いや。せっかくだから“友達”になれたら…なんてな」
 双児宮へ向かい、再びゆっくりと石段を降り始める。「アイオロスは心配しすぎだ」「そうか?」などと雑談を交えている途中で、デスマスクがはたと立ち止まった。
「どうしたんだ?」
 うん? と振り返ったデスマスクにつられて背後を見やったサガの表情が、ぱあっと明るく晴れわたる。先ほどの猫が、いつの間にか二人の後を追って来ていたのだ。
「わたしの所に来てくれるのか?」
「………」
 一対の真ん丸い瞳はじい、と不思議そうにサガを見上げている。人間の言葉が通じるとは思えないが、心なしか次の言葉を待っているように見えなくもない。
 うーん、と暫し頭を傾げたサガは、何かを思いついたようにぽんっと手を叩く。
「まずは名前がいるな。こっちにおいで、アイオリア」
「にゃーん」
「気に入ったか?」
 サガは嬉しそうに差し出した両腕を、“アイオリア”の前足の脇に滑り込ませてよいしょ、と抱き上げた。猫にしては珍しく、まったく逃げる気配がない。サガを親猫と勘違いでもしているかのように、大人しく腕の中に収まっている。
「なあ、サガ」
 よしよし、と抱えた猫を撫でるサガに、デスマスクが問いかける。
「あんた、本気でその名前にするわけ?」
「当然だ。この子は獅子宮の前にいたのだからな。そうだろう? アイオリア」
「にゃー」
「随分と短絡的なんだな」
「そうか? 呼んだらちゃんと返事するし、こんなに人懐こくてお利口さんだ。何だか…本当にアイオリアみたいだ」
 意図しているものは子どもの頃の話だろう。アイオリアひとりに限ったことではないが、確かに良く懐いていたし、そんな彼にサガは惜しみなく愛情を注いできた。それはもう、実兄のアイオロスが嫉妬を覚えてしまうほどに。
「そういやあんた、あの子猫ちゃんのこと可愛がってたもんな〜」
 デスマスクの言う“子猫ちゃん”とは、勿論アイオリアのことだ。本人に言えば烈火のごとく怒るだろうが、デスマスク自身に悪意がないことをサガはよく知っている。だから、特に諌めたりはしない。
 猫を撫でながら小さく頷いたサガは、うっとりと目を細めて遠い昔の日々に思いを馳せていた。

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